読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ohi-sama’s blog

晴れときどきPerfume

龍安寺的東照宮的

とらやぎさんコメントより
自分の中に、単純化への欲求があって
たとえていえば、竜安寺の石庭みたいなことなのですが、
それと同じものをPerfumeの中にみていて、
逆方向の極地として、日光東照宮がある。
みざるいわざるきかざるのあれです。
くりんくりんのPVは、東照宮のようなもので、それはそれでありなんですが
違和感があった。
Perfume的ではないなと。

芸のある人というのは3タイプありまして。
①引き出しが沢山ある人
②引き出しは少ないが、沢山物が入っている人
③自分の引き出しはないが、他人の引き出しを開けるのが上手な人

Perfumeは③タイプだったんですね。反論はいろいろあると思うのですが「わかる人にはわかる」というのは、結局自分自身の見えない姿が、Perfumeを鏡にすると見える。こういうことを言ってるわけです。

人間は意味を求めることをやめられない。他者なんだから放っておく。それで良いはずなのに出来ない。
そこによく言えば解釈、悪く言えば誤解が生まれる余地があります。

作品というのは関係性の中ではじめて生まれるものでしょう。キャンバスに乗った絵の具だとか、スピーカーから出る音波だとか、それは巷にあふれるガラクタでしかない。受け手が存在してはじめて作品も存在する。
大げさに言えば、受け手の誤解によってはじめて作品は完成する。つまり相手があって感動が生まれなければ、作品はいつまでも作品になれないのです。

そこからClingClingのPVを敢えて「誤解して」みれば、あれはPerfumeの中の異物なんですね。

まず問題点は「可愛くない」
誰も指摘しないのが不思議なんですが、舞台設定以前に3人から可愛さを抜き取った演出をしている。
可愛ければ難しいこと関係なしに見るんですよ。共感できますからね。
で、後出しジャンケンみたいに、解釈論がネットで始まる。アイドル相手に擬似恋愛してるなんて恥ずかしくて言えないから、理論武装始めるわけですね。

ところが、ClingClingはそれがなかったでしょ?すると、今までの文脈が使えないことに気づかないといけない。が、ファンも恋愛終了に耐えられないから、抵抗を始めるわけですよ。

まあ、本当の問題は次回作ですよね。ClingClingが一回性の事故で終わるのか、それとも更に事故を続けるのか。
じぶんは焦らずゆっくりとファンをやっていきます。いろんな意味でここまで来たら肝を据えるしかないので。
ではでは。

歌のフックは如何にあるべきか?

とらやぎさんから、また感想文の依頼がありまして、頭をひねっているところです。


武藤彩未 「パラレルワールド」 | Ayami Muto "Parallel World" - Welcome ...

武藤彩未さんですが、前に「優等生すぎて心配」ということを書いたことがありました。

自分はアルバム全部を通しで聴いてはいないので、断片しかわかりません。仮にそれを聴いたとしても、解るかどうかは神のみぞ知る世界です。

 

芸術というのは、出逢いの世界であって、作品と受け手の相互の問い掛けと対話です。それがないままで論じようとすれば、表層的な分析しか出来ないことを曝け出します。

いわば、芸術は自分自身の鏡です。

 

少し話はずれますが、ClingClingがちょうどそれでした。

誰もが「評価軸」をつかって「分析」をしてみせましたが、結局Cling Clingそのものではなく、「私の好きな音楽」を論じていただけでした。

評価軸をつかう方法は、詰まるところ座標軸の中心に常に自意識を置いて、それで万物を一方的に裁いてみせるという妄想に過ぎません。心が通じていないんだから、表層的なものしか見えません。舞台設定だとか衣装だとか歌詞だとかアレンジが中国風だとか。

例えて言えば、物差しで測れるところだけを測っただけなのです。

ところが、世の中には物差しで測れないものがあることには目をつぶってしまう。好き嫌い関係なしに「これは想定外だが、現実に存在することは認めねばならない」というものがないのです。

ですから、必然的に自分の好き嫌いの選り分けに終始してしまい、想定外の現実が出てきたら万物を裁くどころか、拒否反応と自己弁護だけで手一杯。

よほど、 ClingClingの取り扱いに困ったのでしょう。これが果たして何だったのか、相手の心に伝わるように書けた方は誰もいなかったと思います。

 

話を戻して正直に申し上げると、武藤彩未さんは自分にはまだわかりません、というのが本当のところです。ダメという意味ではありません。徹底的に問い続けようと思えるだけの出逢いがまだ生じていないということです。

表層しかみてないことを先にお詫びした上で論ずると、やはり存在感がまだ足りないように思います。

たとえ悪印象だったとしても、何かが相手の心に残る。自分には受け容れ難いけど、確かに存在する現実だという「異質感」がないのです。

これが「優等生すぎて心配」ということの意味です。

 

Perfumeのことばかり書いて申し訳ないのですが、彼女らが世に出て今迄の罵詈雑言の数々。挙げたらキリがないでしょう。

でも、それがフックになってるわけです。クチパクもオートチューンもダンスも広島弁も、一般人には受け容れ難い。おかしな要素ばかりですよ。

 

でも、それが人目を引きつける。

10人に一人くらい面白いと思う人がいて、さらにその中の何人かが本質に気付いて饒舌に語り出す。そこまで言うなら聴いてやろうという人が現れる。

 

武藤彩未さんは、残念ながらそれがないでしょう?おそらく関心の持たれ方も、Perfumeつながりが多いのではないでしょうか?(BABYMETALも国内ファンはそれですね)

これがクラッシックで声楽やってますというなら分かります。その分野なら売れますよ。でも、海千山千の芸能界で果たして歌が上手いだけで続けられるのか。

 

もう一つは、毒がないこと。

Perfumeは痛みの世界でして、そこは自分もかなり強く主張してきました。思春期の傷と魂に殉ずる者がファンになるのだと。

たとえは良くないですが、コンプレックスを抱えた人を狙い撃ちにしてるような商売でして、必ずしも美しいものでは御座いません。でも、私みたいにそれで救われる人もいる。

 

ところが武藤さんは、夢と希望で美しくまとめすぎてるところがあって、人間臭くないのです。

もちろん、こういう世界があっても良いですよ。でも、自分のように、先に進むことよりも、立ち止まって何かを考えたいという人には、付いて行くのが逆に厳しかったりします。

その意味では優しくないのです。

 

で、門外漢が言いたい放題というのもアレなので、どの程度毒を混ぜたらいいのか、研究材料を紹介しますね。

これ歌っているボーカルのやくしまるえつこさんは今年27歳。Perfumeよりちょっと年上です。でも、立派に少女の世界を演じてます。

 

ハイファイ新書

ハイファイ新書

 

 


相対性理論-地獄先生.wmv - YouTube

と、文章で書くとサラッと言えますが、PV見ると脳天直撃しますね。ハイ。

カマトトソング選手権(←そんなのあるか?)なら間違いなく優勝候補。息も絶え絶えに、先生〜♪とか耳元でささやかれると、年甲斐もなく心拍数が上がります。どうしてこんなにエロいのか?(笑)

 

誰かこれのコピーやってくれませんかね?AKBが48人水着で掛かってきてもこれなら余裕で勝てる。

武藤さん、もし良かったらお願い出来ませんか?こんなこと言い出すとファンの皆様から袋叩きに遭うと思われますが(笑)

 

僕キミ研究なんて思いついた人ですから、カマトトソング大好きなんですよ。良いのがあったらご紹介くださいませ。

ではでは。

 

<追記>

武藤彩未さんの感想を一言でいうとセラミックガールです。

柔らかできれいな言葉たち並べて

おだやかでやさしい人になれるわ

新しい世界で 自分を隠して

たぶん でもね 私は

 そこを超えられるかだと思うんですね。悪口のようで本当に申し訳ないんですが、外野の意見はそういうものだと思って頂ければ、今後のファン活動に役立つのではないかと。


<追記2>

この記事自体が悪い見本なのですが、感動のあとに分析をするなら読むべき文章になるのですが、分析だけで誰かを感動させられるかというと不可能なんです。

ですから、ClingClingの分析をしてみせた方々を笑うわけにもいかない。自分もこの記事で同じことをやっているからです。その意味では、まさにパラレルワールド。同じ穴のムジナです。

その上で、どうすれば本質に近付きやすくなるのか、いくら表層的と批判されようともフックをどうすべきかは大事なことです。そういう観点で考えて頂ければ幸いです。

ピースとハイライト

世の中は広いもので、この寒空の下、明日アミューズに抗議行動に行く方々いるんだと。(←はぁ~?ウマシカじゃね???)
 


㈱アミューズ(サザンのプロダクション)の対応 : 一介の素浪人

 
桑田佳祐ピースとハイライト反日的で、しかも天皇を揶揄する発言が気に食わないということなのだが。
 
たぶん、この人は音楽には全く興味がなくて、音楽ファンからも総攻撃を食らっているが、残念なことにかえって売名活動としては成功してしまったかも知れない。
 
自分たちも気を付けないといけないのは、「優しさ」と「レッテル貼り」。
日本と皇室に対する「優しい想い」が時にはこういう形で爆発する。相手を必要以上に悪者にして、そこに原因の全てを求める。
 
Perfumeのファン活動だって例外ではない。優しいファンが優しくないことを仕出かす。
100人のファンがいれば、100通りのPerfumeがいる。それで良いんだ。
「優しいファシズム」は自分のもっとも嫌うところです。
 

あるパラレルワールドのはなし

f:id:ohi-sama:20150110003733j:plain

 

某国ではこのような法律があるらしい。

 
第一条  この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。
一  放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。
二  放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。
三  放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。

 

放送っていうものは「国民に最大限に普及され」なきゃいかんらしいです。で、表現の自由も確保して、放送に関わる者は職責も明らかにせにゃならんと。

あのですね〜。ClingClingの紅白歌合戦の動画はどちら様のご意向でブロックされているんでしょうか?

余は如何にしてClingCling信徒となりし乎

f:id:ohi-sama:20150108063216j:plain
 

1.Perfumeの評価軸とは

先日の記事に常連のとらやぎさんから頂いたコメントで次のようなものがありました。
要約すると、
 
1.人間は表現活動に対して、
(1)「何を求めるか」という欲求の対象か否かという点で「評価軸」を持ち、
(2)そのうえで、「欲求がどれだけ満たされるか」という有効性において「評価」を行う。
2.「評価ができない状態」、すなわち言語化できない表現に対しては「嫌い」という評価をする。
というものでした。(趣旨と違うかも知れませんが、私はこのように解釈したということで御勘弁を)
 
視点としては正鵠を射ていると思うのですね。ClingClingについてのファンの一連の現象はまさにこれですから。
曲を聴いて、ダンスを見て、わからないならば、ただ単純に「わからない」と答えるべきだったのです。それが正直だし、別にファンだからといって、すべての曲が好きである必要なんかないですし。
あるいは、わからなければ「無関心」というのも答えですよね。
ところが、何がなんでも体験を言語化しないといけないという変な観念がある。そして、できないものだから、「嫌い」になってしまう。
その現象を正確に捉えているという点では、この説は正しいのです。
 
たとえば、前にファンカメラの件で圧力団体を始めた方のことを書きましたがあの方ClingClingで同じようなことやってるんですよ。売り上げが悪いのは違法アップロードのせいだと理由をつけて。
本来なら「新曲が素晴らしいから聴いてみてよ!」というのが先のはずなのですが、たぶん曲の良さを理解できなかったんでしょう。「嫌い」という感情が、変にねじ曲がって他のファンへの攻撃に向かっていくという。
また、私らのお馴染みの、あのお方もどうしているのか心配ですし。

2.愛は評価できるか

ただ、私がここで言いたいのは、本当に評価だけで人間は行動が決まるのかと。「評価ができないもの」だからこそ、人間は愛情を注げるのではないかと。
 
たとえば、家族なんてその典型で、ロクでもないガキに時間と労力と大金ぶち込むなんて愚の骨頂なわけですよ。嫁さんだって飽きたら取り換えればいい。
評価という観点からすれば、人間は不合理極まりない存在であって、そういう不合理な日常を漫然と生きてるなんてそれこそ無意味なわけです。
 
でも、これを否定できますか?
 
言い方を変えると、「好き-嫌い」という関係は評価軸でいいと思うんです。でも愛情って評価軸で判断できますかね?私の考えでは、芸術とか美とかも、同じ括りで考えるべきものなんだと思うのですよ。
 
 

3.大人も赤ちゃんからはじまった

もう一つ、疑問点を挙げると、私たち大人も、はじめは「赤ちゃん」だったんですよ。
 
でも、赤ちゃんって言葉を話せますか?言葉を話せない人がどうやって「言語化できない状態」に対して「評価」をするんですか?
だけど、赤ちゃんにも「好き-嫌い」はあって、そこからの体験の連続があって、今の自分自身があるわけでしょ?
 
だから、この説には「有効射程」があって、ある現象を説明するにはすごく的確なんだけど、場合によっては別の考え方も必要だろうなと考えておりました。
 
そこで出してきたのが「我と汝」なんですが、これは時間があったら触りだけでも読んでおくと、芸術批評には役立つとおもいます。評価を「我とそれ」の関係として、そこでは芸術は存在しないとバッサリ切ってますから。賛否はともかく、刺激はすごく受けると思います。

 

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)

 
 

4.余は如何にしてClingCling信徒になりし乎


NHK紅白歌合戦 Perfume 『Cling Cling』 - YouTube

すみません。ブロック掛かってるようです。自力で探してください(^^;;

 

話をPerfumeに戻すと、私は前の記事で紅白のClingClingを絶賛したんですね。
これこそPerfumeの真の姿だと。我々が恋い焦がれ、待ち望んでいたものが帰ってきたと。
 
何に感動したのか、読者の方はサッパリ理解できなかったかも知れませんが、それはClingClingが徹底して「言語以前の世界」を扱っているからなんです。
 
「そもそも論」を展開すると、「世界」というものは言語で捉えられるかということなんですよ。
歴史的な区分でいえば、私たちは近代社会というものを生きていて、そこで発達した「科学」というものは、
 
①万物は「分析」によって性質を明らかにできる、
②全ての現象は「法則」によって説明できる、
③人間は「理性」の働きによって世界を解明できる、
 
というドグマをもっています。
だから、世界というものは「分割」して、「分析」して、「法則」の当てはめのために「評価軸」を書き込んで、そうして出来たグラフに点を打てば解明したことになるだろうと。
それが科学というドグマがやってきたことで、その意味ではとらやぎ説は真っ当な考え方なのです。
 
ですが、この考えのダメダメなところは、座標の中心は常に「人間」、しかも「理性的人間」というイデオロギーを前提にしていることなんですね。
そして、「理性」というのは全てを論理、つまり言葉の積み重ねで解明できるという前提の考え方です。
でも、本当に人間は合理性だけで生きているのかと。
 
さっき述べた「赤ちゃん」はそういう存在なんですよ。合理性なんか、ひとかけらもない。でも、愛情ってあるわけじゃないですか。
おてて つないでる
キミと あたしの るんるんるん
ちっちゃい このコでも
愛の 深度 変わらない
 
私たちが生きている「世界」というのは、むしろ「分析が及ばない」ということこそが本質であって、だからこそ驚きや畏敬や愛がある。
おっきいハコの中 背の高い生物がたくさん
かきわける 全身を使って キミをつかむ
 
決して理解はできないが、だが自分たちは関係のなかで常に問いかけをして、また言葉にならない対話がそこにはある。
見上げて何かを言う いつかは横に並ぶでしょ
なまいきなハーモニーまで もうすぐ
 
たとえば、ある人々にとっては自然はいまでも対話の相手なわけですよ。
農家とか漁師とか自然相手の仕事はもちろんそうですし、庭師や生け花の先生も草花からの「語りかけ」からインスピレーション受けて仕事をしてるんです。
 
前の記事で、Perfumeの歌詞の中の「キミ」というのは、確かにあなたの意味ではあるけど、元を正せば天皇の意味で、そこから来たるべき世界を暗に指しているんだよということを書きました。
だから、キミというのは別に人間でなくても良い訳です。全存在を懸けて希求すべきものであれば。ある意味、人間を超えてるんですよ。
 
では、「僕」がまだ言葉がおぼつかない子どもであれば、何が「キミ」になるのか。
目にするもの、触れるもの、生きとし生けるものすべてが「キミ」なんでしょう。
何も知らないからこそ、対話が生まれる。全てに命があると思っている。
そういう世界が、本当はすべての人にあったし、ただ大人になってそれを忘れているだけなんですよ。
 
子供におもちゃをあたえれば、ずっと話し掛けながら遊んでいるじゃないですか?これ、独り言だと思います?立派な対話ですよ。
その子供にとっては、おもちゃは単なる物ではないし、それへの語りかけで「世界を作っている」。仮に言葉がまだ話せなくても、そういう意味での「語り掛け」は赤ちゃんでも出来ます。
そこでは、座標軸に置かれた点の集合が世界だという考え方とは、全く別な世界が広がります。
 
ClingClingが素晴らしいのは、人間関係が一切なし。Perfumeのクネクネした動きって、人間の仕草ではなくて植物の成長や、川の流れ、星の瞬き、雪の降る様。そういうのがモチーフなんでしょう。で、時々ぴょんぴょん跳ねるのは子供の遊び。
 
これはね、いまでも田舎で野山で遊んでいる子供ならわかったと思うんです。
ところが、大人は人間関係第一主義みたいなイデオロギーが抜けなくて、さらに日本の歌の99%は恋愛絡みという歪んだ前提があるから、なおさら抜けられない。
人間関係の評価軸をどこまでも使おうとするんです。それが、もう役に立たないことに気付けない。
 
Perfumeの側も難しかったと思います。人間以外の存在なんてやったことないから。
だから、それを表現するにはPerfumeの力をもってしてもリリースから紅白まで半年が掛ってしまった。そのくらい「言語の世界=人間関係」の呪縛から抜けるのは難しいということなんです。
 
だから、先入観持たずに、もう一度紅白を見てください。
ほんの少しのことがわかれば、あとはスッとその世界に入れます。凄く楽しいし、見ていてラク。癒しってこういうことだったのかと気が付きます。
すると、私の言ってることもだんだんわかってくると思います。

 

ではまた。あの方から連絡あったらヨロシク。

キミは紅白の Cling Cling を見たか


Perfume/Cling Cling 第65回NHK紅白歌合戦 2014/12 ...

はじめに

紅白のPerfumeは掛け値なしに凄かった。そして、Cling Cling は初めてその全容が理解できた。

 

あれは歌詞がどうとか、衣装がこうとか、舞台設定とか、そういう「分析」ができる代物じゃない。

だいたい、個々に細分化して分析されたパーツは、表現そのものではない。それは人間を「単なる分子化合物ですね」と結論づけて証明おわりとするようなもので、何も答えになっていない。

 

今回は紅白という横並びの異種格闘技戦であったのが、幸運であった。

 

まず、出だしの音から差がついてる。中田ヤスタカの緊張感あるタイトな、しかし抑制しつつ強さを感じる「届く音」。こういう演奏ができたグループは皆無で、自称アーティストは公開処刑状態に遭う。

 

そして肝心のダンスだが、なぜいままで自分たちは感動出来なかったのか?

これは理屈ではなくて、Perfumeの全身から出でくる気合いと集中、そして熟成度の問題だったのだと思う。

 

おそらく、発売当初、本当にこれが受け容れられるのか、3人は不安だったのだろう。その後、ぐるんぐるんツアーでも、WT3のことで頭がいっぱいで、心の余裕が全くないまま演技をせざるを得なかったのだと思う。

その迷いが残念ながら芸に表れて、混乱に繋がってしまったのだと考える。

 

それが紅白では違っていた。

正直にいえば、ClingClingは不人気曲であって、そのことはPerfume自身が痛いほど分かっていたに違いない。自分も今年の紅白はこの曲でやり切るのは難しいと書いた。

しかし、彼女らは逃げなかった。最後の最後までClingClingの完成に拘ったのである。そして、この態度が表現として結実した。

 

解釈ってなんだろう?

 

Cling Cling の発売当初聞かれたのが「さっぱり訳が分からない」。実際、この曲ほど、歌詞カードを読んでも内容が分からない曲もいままでなかった。

さらに、ファンはいままでの Cling Cling が、先に挙げたような問題もあり、ダンスの面でも、熟成、つまりPerfumeの中でも理解の深さが届いておらず、未完成の状態のまま受け入れざるを得なかった。

結果として、それは拒否反応に変わるか、Perfumeのやることに間違いはないという信仰に変わるか、とにかく自分自身が全く納得できないまま態度だけを決めるという状況を作り出した。

 

でも、それっておかしくないか?

だいたい、歌詞なんてこれでも通用する。

 

修羅場穴場女子浮遊
憧れのPARADISE☆PARADISE
愛乃場裸場男子燃ゆ身を寄せりゃ
カモなる無限大

 

 

これくらいの感じで
たぶんちょうどいいよね
わからないことだらけ
でも安心できるの

 

大御所のサザンオールスターズだって、こんなものなのである。というか、それが芸風であり、また歌詞としての面白さだ。

自分たちはファンだから、正しい正解をすぐに求めたがる。しかし、いま、全てを理解する必要なんてなかったのだ。それは傲慢というものだ。

本当に必要なのは、正解ではなく永遠に続く問い掛けなのである。

 

「我と汝」

私たちは作品を「選んで」それについて「分析」する。こういう態度は一面では正しいが、永久に感動には結びつかない。

芸術の本質は、作品が「私を選ぶ」ことにある。作品から発せられる力で、私は作品に吸い寄せられる。私があれこれ考える以前に、私の魂は作品の世界に取り込まれている。

Perfumeだって同じことだ。私たちはいつの間にか魔法にかかったように作品に吸い寄せられファンになった。自分の意識ではなく、Perfumeからの働きかけの力なのだ。

なぜ、それほどまでにPerfumeは、また作品は自分を魅了し続けるのか。そこには客観的な分析では決してカバー出来ない、主観としての「対話」がある。

 

マルティン・ブーバーの「我と汝」に習えば、「世界」は人間の態度によって二つに分裂する。

 

①一つは「我と汝」。

「汝」は「我」の全存在を以てのみ語ることができ、我と汝との間に境はない。私は汝との「関係」の中に生きている。

  

②もう一つは「我とそれ」。「それ」は決して全存在をもって語ることが出来ない。「それ」は、私から切り離された世界の一部の分析対象にすぎない。

  

③「我」と「それ」との間には「私はそれを知っている」という過去形の世界しかない。

 

④しかし「我と汝」との間にあるのは、永遠の現在である。絶えることのない疑問についての対話の世界だからである。

 

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)

 

 

 

そして「僕とキミ」

世界は謎として存在し、その中で人間は生まれ、理不尽ななかを生き抜き、最後は死を迎える。

我々は一日一日を死に向かって歩み、万物には必ず終末が来る。

そして時間の流れを止めることは出来ないと誰もが言う。時間は誰にでも平等だとも云う。

 

だが、この一般論は本当だろうか?

 

中田ヤスタカが「僕とキミ」という歌詞世界で訴えたかったものは、歌詞の内容だとか情緒だとか世界観だとか、そういう自分自身から切り離された分析対象としての「我とそれ」では決してなかったのだろうと思う。

 

我々は自分の意思とは全く関係なくこの世に生を受け、それが一回限りのものであり、替えの人生はあり得ないという、本質的に理不尽な一回性・不代替性のなかを生きている。

自分の生という観点からすれば、銀河の動きがどうだとか、原子の構造がこうだとか、そういう客観の世界はパラレルワールドとして存在するにせよ、決して本質的な問題ではない。

我々が本当に知りたいのは、生きること、死ぬこと、そして幸福の意味であり、それに世界がどう関係するのかということなのだ。

 

手前味噌な話を繰り返して申し訳ないが、幕末に「僕とキミ」と呼びあった若者が夢見たものは、千年前に力を失った天皇の復権であり、同時に300年も遅れてしまった近代に追いつくことであった。

 なぜ「僕とキミ」は死語になったのか - ohi-sama’s blog

 彼らはパラレルワールドを生きたのである。

そして、パラレルワールドという分析も一面では正しいのだが、更にあえていうなら、彼らは「僕とキミ」=「我と汝」という言葉を見出すことで、「永遠の現在」を生きたのである。

 

それは、世界と自分とを決して理解し得ない、しかし、永久に続く対話と問い掛けの関係として捉えることであったと思う。

「キミ」はあなたとしてのキミであり、天皇を指すキミであり、来たるべき世界としてのキミだ。

だから死ぬまで手が届かないとしても、全存在を懸けて希求をすべき永遠の存在なのである。そして、そこに生きること、死ぬこと、幸福の意味を見いだしたのではないか。

望遠鏡で見た遠い星で生まれてたら
同じように きっと今頃 キミを探す
見上げて何かを言う いつかはこの手届くかな
天の川越えるまで もうすぐ

誰だっていつかは死んでしまうでしょう

だったらその前にわたしの

一番硬くてとがった部分を

ぶつけて see new world 

 

 

そしてPerfume

 

Cling Cling に話を戻せば、なぜ紅白での演技がここまで素晴らしい物だったのか。

それは彼女らの全存在を懸けた姿勢にあったのだろう。雑念を全て忘れて作品にのみ意識を集中する。作品がもつ力によって、初めて自分の表現が始まる。

自分と作品との間にもはや壁は存在しない。ただ一曲だけを全力でやりきる場だから、それが可能になった。

だから、表情が三人ともとても良かった。それだけで自分は彼女らに花マルを付けたし、演技を観てさらに満点以上の採点をすることが出来たのである。

 

ただ、いままでにない難曲である。

その後のCDTVでは紅白のようなキレはなかった。気力を使い果たしたのだ。

Cling Cling は、そのくらい細部にまで魂を宿らすことで完成する曲だった。

 

 

だから、ここでの教訓は、ファンは一旦「分析」を遠くからみて、そこから離れることも必要だということ。そして、芸術は時間とともに熟成されるもので、早急に結論を急いではならないこと。

我々ファンが悩みながら進んだように、Perfumeもまた時間をかけてここまで進んだのだ。

それは自分が去年得た貴重な体験として誇りにしていいように思った。

一応、2014年の総括

皆様、今年は大変にお世話になりました。
 
一応、今年の総括でこの記事に触れておきます。
デイリースポーツでWT3について記事を書いてくれたんですが、あーちゃんがspending all my timeのDV&LM remixについて「歩み寄りたかった」と話しているんですね。
 


Perfume米国で成功の鍵は「変」(3)/オピニオンD/デイリースポーツ online

 

音楽面でいえば、今回のツアーに合わせて、初めて中田氏以外の人が楽曲をリミックスしている。10月末に発売した全米盤収録の「Spending all my time」だ。世界的なベルギー人DJデュオによるリミックスで、NY公演でも1番といっていい盛り上がりを見せたのが、この曲。オリジナルよりも重低音を響かせ、よりダンスミュージックとしての色を強めている。

 

この変化をあ~ちゃんは「歩み寄りたかった」と表現した。「それ(中田氏以外のリミックス)をやってきていなかったので少し抵抗はありました。でも、アメリカの方にもス~と入ってきてもらいたかった」と悩みながら決断したという。

 

察しの良い方ならお気づきと思いますが、「彼女は洋楽にそんなに知識がありましたっけ?」
大変失礼な言い方になりますが、外部にremixを頼むとかそういう知恵は彼女にはありません。
どこまでも中田ヤスタカを信じてついてきた。ヤスタカはそれに応えた。信頼関係で物事を動かす方です。
 
remixについてはファンも賛否が分かれていますが、それについて責任者が自分で考えを述べないから、すべて彼女が後処理をする羽目になる。こういうことを2014年のPerfumeはずっとやってきたわけです。
 
新しいことには失敗がつきものですが、それをファンは批判はしません。好みでない表現であったとしても、それでファンを辞めるということはありません。
問題とするのは、アーティストの全存在を掛けての表現活動といえるのか、そういう人を動かす要素があるかどうかです。
だから、逃げないことが何より大切で、その点はマネージメントサイドには伝えておきたいところです。
 
まずは、今年の紅白を全力でやりきってほしい。そこからの来年へのスタートですね。
では、皆様ごきげんよう。良いお歳を。