ohi-sama’s blog

晴れときどきPerfume

僕がキミに残した手紙

前回の続きです。

「Perfume愛」ってなんだろうね? - ohi-sama’s blog

四,

 ここにもう一つの愛の病理である終末論がある。
 古来より、人を愛するが故に、自殺を願う思想には枚挙にいとまがない。最たる物が終末思想で、神の愛を伝えるはずの聖書にまで黙示録として潜ませた。
 世界の終わりによってのみ、我々は平和と永遠の命を手にすることができると云う。
 それを夢見た教祖が二十年前この国にも居た。
 

 この世での精神の満足を得られぬ者が求めるのが宗教ならば、Perfumeもまた宗教の要素を含む。忘れていたはずの思春期の魂を揺り動かすことが、彼女らの芸の本質だからである。

 技術的なことは拙筆少年少女であるということにも多少書いた。なぜ彼女らの歌は肉声が聞こえないのか。なぜ手話のようなダンスになったのか。なぜ詩の世界には「僕とキミ」しか出てこないのか。

 

 私にはわかる。唯これは万人に論理立てて説明しうるという意味ではない。たとえ言葉で説明できたとしても、解り合えぬ者には決して伝わらない。

 「わかる」とは、中学二年生の時、不登校生徒だった自分が、周囲の不理解と罵声と暴力に対して、何も自己弁護ができなかったことに由来する言葉と論理への渇望感から、誰にも伝えることのない言葉なき秘密の共有者として彼女らの表現に共感しうるという意味である。

 

 思春期の世界には、言葉も秩序も善悪もないのだ。肌身で不条理を感じ、意味もわからず美しいものへと惹かれていく。これは大人になって社会に順応し、生殖して子孫を育てるという種として生まれ出たことの宿命であって、御行儀のいい教科書どおりの理由など存在するはずもない。

 個々の体験はどうであれ、Perfumeにおいて大切なのは理解ではなく共感である。記憶の奥底に沈んだ痛みである。音楽性云々も勿論重要ではあるが、思春期の魂に殉ずる者こそが永遠にファンであり続けるのではないかと推察する。

 

 

五,

 それゆえ、Perfumeの病理もまたこの部分に存在する。
 我々は己を愛しうるのであろうか。不完全な己を愛せぬが故にPerfumeを愛するのではないか。
 私は彼女たちがファンの満たされぬ魂の分身のように思えて仕方がない。

 

眠るような顔のそばに花を置きながら、 ぼくの言葉と君の旋律は、こうして毛細血管でつながってると思いました。 だから片方が肉体を失えば、残された方は心臓を素手でもぎ取られた気がします。

 

松本隆大瀧詠一に贈った最期の言葉である。*1

 もしPerfumeの解散が決まったならば、私も同じ痛みをきっと感ずる。解散論者とて同じである。彼らは全身に転移した施し様のない癌との闘病者である。
 我々の中に五体満足な者など誰一人としていない。積み重なる不条理に嘘をついて何とかやり過ごし、日常を生きているのが現状であって、そこで装うのは虚構の自分である。さもなければ、向かう先は死とこの世の終わりである。あるいは終わることのない自分探しである。

 

 人が人を愛するというのは、欠けた自分をとり戻すと云うことに他ならず、それによってようやく生き延びることが出来るのである。愛をやめることは出来ない。
 私たちはそもそも何者なのか。願いは何処へ向かうのか。

 

 

 

六,

 我々は愛が素晴らしいから人を愛するのではない。愛から逃れられぬ故に愛するである。
このように先に書いた。
 では愛する者が最早その姿を留めないときに、我々は愛することをやめられるのか。
   決して出来はしない。宗教の存在が雄弁にそれを否定する。そうでなければ、だれが墓参りなんて行くものか。
 この点で解散論者=終末論は最早破綻している。愛する者が美しい姿のまま死んでくれたら心の安寧が得られるか。初めから不可能なのだ。

 

  愛は欠けた世界の産物である。永遠の美しさ、無垢な完璧さを求める思春期の魂がそこにはある。愛するものが死ぬなら自らも死ぬ。はかなげな世界である。

 

 同時にそれは歩みを止めた病的な世界でもある。こういう世界をイデオロギーと呼ぶ。
 社会は完全無欠の美しい公式によって成り立っていて、そこから導かれた目標を達成することが生きる目的だという。
 嘘をつけ。どれだけの無辜の民が無残に死んでいったことか。
 

この道を走り進み進み進み続けた

地図に書いてあるはずの町が見当たらない

振り返るとそこに見えていた景色が消えた

この世界僕が最後で最後最後だ

 

  だが人間は変化する存在である。いつまでも「僕とキミ」ではない。少年少女の世界は終わりを告げ、否応なしに新しい世界へと進む。

 

 

七,

半年のうちに世相は変った。

「醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。」

若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。

「ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。」

けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。

人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。

坂口安吾堕落論」より (括弧、改行の挿入を行いました。2015.2.9)

  「僕とキミ」は成長したらどうなるのだろう。ちょうどPerfumeがそういう年齢だし、ファンが頭を痛めているのも、正にそこだ。

    そして、今から七十年前、敗戦という本当のエレクトロワールドを生き延びた少年少女の経験を、坂口安吾は「堕落論」に書いた。

 

 たった半年のことで世界は変わったね。僕もキミも汚れたね。キミが死ぬ時は僕もそうすると約束したこともあったよ。でも、もうすぐ僕はキミを忘れる。永遠なんて偽りを信じたときもあった。だけど、キミだって本当は気付いていたんだろう。

 

 ファンはいつだって口を揃えて言う。Perfumeは永遠です。僕は絶対に裏切りません。

 でも、誰もが薄々感じているのだ。怖くて口にしないだけだ。そしてある者はファン同士で諍いを始め、ある者はここで終わりにしてくれないかと解散を望む。

 だが、坂口は答える。「人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。」それは、僕とキミが成長するということなのだ。

 

 私は、この一説を読むとき、最後の晩餐の話を連想する。 

 イエスはパンとワインを弟子に与えて言う。これは私の血と肉だと。
 そして、自分は決して裏切ったりしないと言った弟子の一人に伝える。
 「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 

 イエスは知っていたのだ。人間は強くないことを。そして生きるためには食っていかねばならないことを。

 

 でも、それを恨んだのだろうか。自分は恨んだりしなかったと思う。なぜなら、人が弱いこと、生きるためには食わねばならぬことは、神が作った人間の本性なのだから。変えようとしたって、変えられるものでないことは初めから知っていたのだ。
 それでも、イエスは弟子に生きていてほしいのである。
 
 これが僕がキミに出来る最後のことだよ。そう言って食事を共にする。この日の出来事がほんの少しでもキミの記憶に残るように。キミの命に役立つように。

  

 だから私は思う。エレクトロワールドで「この世界の仕組みに気付いた僕」がキミに残した手紙の中身は、絶望では決してないのだろうと。

 そして、これは中田ヤスタカから我々への問い掛けでもある。

 最期のときにキミは何を残すんだい?言葉という、脆弱な儚い記号に魂の全てを乗せて。

 

  キミは希望を諦められるか?

 

 私は願う。Perfumeが永遠であることを。それは堕落を認めることと同義であるが、覚悟の上である。

 私がPerfumeに惹かれていくのは、きっとそういうことなんだ。

 

 

続く(つもりです。この記事ももう少し手を入れます。)

 

 

堕落論 (角川文庫クラシックス)

堕落論 (角川文庫クラシックス)

 

 

 

小型聖書 - 新共同訳

小型聖書 - 新共同訳