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ohi-sama’s blog

晴れときどきPerfume

人間は二十五歳で終わりなんだろうか?

id:andoreiさん

岡田斗司夫が、ニコ生で
「一生中二病だよ。中二の時やったことや言ったことに死ぬまでずっと責任取らされるんだから、しょうがないんだって」って言ってました。

 

僕がキミに残した手紙 - ohi-sama’s blog コメント欄より

更新が空いてしまったので、また他人様のお知恵を拝借。

 

二十五歳理論と中二病

人間を徹底的に動植物と同じにみなして、種の保存という観点でいくなら、中二が人生の原点であり終末なんですね。

 

あーちゃんが二十五歳理論なるものを言ってたとき、「生き急ぎすぎだろ」と私は脳内では批判しました。
ですが、人生楽しいことは二十五歳まで、あとはその思い出の反芻のために子孫残して追体験を楽しむだけ、あーちゃんの言ってることは正鵠を射ているという自分もいて、非常に居心地の悪い気分になったことを覚えています。

理屈と身体感覚がずれていて、それが自分も当事者なんだから居心地も悪くなるわけです。

 

三十年前までは女性の適齢期は二十五歳でした。*1もっともこれは平均値ですから、一番層の厚い部分はこれより1~2歳低いだろうことは推測できます。そして婚姻後、1~2年で出産というのが普通でしょうから、そこで人生の折り返し地点が来てしまう。そして、子育てを通して、人生の追体験をする。二十五歳理論は伝統的な家族観念からすればごく当たり前なものでした。

 

これが自然の摂理に基づいた幸福というものだという考えからすれば、あーちゃんの言うことは絶対に正しい。そして、あーでもないこーでもないと40歳過ぎても理屈ばかりこねくり回しているから、結局お前はいつまでも幸福にたどり着けないんだという批判も正しい。

まあ、その程度は客観的に自分自身を見ることは出来ますから、お説ごもっともですね、精進いたしますと、表では反省したふりして、裏ではバカヤローとベロ出して、でも内心は穏やかでない自分がいたりします。

 

で、ここのところ話題にしてきたのが「あーちゃん遅蒔きの中二病説」。

あまり積極的に情報集めるタイプでないのですが、このまえ「あーラジ」聴いたらゲストがなんとちゃあぽん。しかも二回目・・・・・*2

あんたら家で毎日顔合わせているよね?というか同じ家に住んでるよね?あーちゃん、キミははじめは「日本でその道の第一人者と言われる人をお招きして、いろんなことを学びたい」とか言ってたよね? それで第一回目はさかなくんをゲストにしたんだよね?・・・・・・・・・

バカヤロー!!!今頃、内向きの中二病かよ!!!

 

呆れる反面、ほっとしている自分もいたりして、ホント、ファンの心理というのは複雑なモンです。これじゃ困ると思いつつ、彼女にあまり遠くに行かれても嫌だという。

 

岡田斗司夫氏の言葉で「死ぬまでずっと責任取らされる」なんですが、私みたいなのは割と責任の取り方も道筋は見えていて、それなりの処方箋もあって、ある程度はロゴスの世界で解決できるものではあります。それでも懲役の期間はまだ長いのですが。

ただ、あーちゃんの場合は、転び方によっては厳しい壁にぶち当たるだろうなと。

 

DreamLandと僕とキミ

あとで別記事に書こうと思っていたネタですが、二十五歳理論と中二病で書きましたので、それを受けてもう少し論を進めます。

「僕」と「キミ」という言葉の両方が歌詞に出てくるのは、LEVEL3の「DreamLand」が最後なんですよ。これが出てくる歌詞は独自の世界観を持っていて、Perfumeの世界の骨格をなすものでした。

 

本論に入る前に、まず「僕とキミ」が特別な意味合いを持つことに軽く触れます。

眠るような顔のそばに花を置きながら、 ぼくの言葉と君の旋律は、こうして毛細血管でつながってると思いました。 だから片方が肉体を失えば、残された方は心臓を素手でもぎ取られた気がします。

前にも引用させて頂いた松本隆大瀧詠一に贈った最後の言葉ですが、ここで出てくる一人称が「ぼく」と「君」。

大瀧詠一は享年65歳、松本隆はこの時64歳でした。普通に考えたら、お爺ちゃんが僕とキミって可笑しいでしょ?でも、これが名文であるのは、青春時代を共に生きた友人に宛てた手紙だからです。*3

 

「僕」と「君」が幕末期の流行語であることは、広く知られていることです。未曾有の混乱のなかで、出自も身分も立場も違う志士達が、互いを友人として呼び合うために生まれた言葉です。

これは一般的に使われる一人称「私」と比べれば違いは一目瞭然です。

「私」が社会への従属を前提とした縦の繋がりを表すのに対して、「僕とキミ」はどこまでも自由な横の友情の繋がりなんですよ。

それを踏まえると、この言葉の特殊性がわかります。

 

「コンピューターシティ」「エレクトロワールド」「ポリリズム」「Twinkle Snow Powdery Snow」「Dream Fighter」「GLITTER」「未来のミュージアム」「Dream Land」

これが「僕とキミ」が使われた楽曲。ここぞという時に中田ヤスタカが出してくる必殺技です。

 

このカチッと作り込まれたひたすら内向きな世界。僕とキミ以外に世界の住人がいないんですから。

ほんの少しの僕の気持ちが

キミに伝わる そう信じてる

そこには性差という壁もなくて、固い殻に守られた中での「物語」が進む。正確に言うと物語にならない「想い」で完結している。

何度か書いてきた事ですが、この思春期の感覚に共感して涙することができるかが、ファンになるかどうかのリトマス試験紙の役割を果たします。

 

その完成度の極致と限界をみせたのが「DreamLand」。

3人は、これまでライブ終演時(アンコール後)にしか口にしてこなかった「それでは!Perfumeでした!」というあのお決まりのフレーズを叫び、そして消えて行ったのだ。

過去何度もPerfumeのライブを見てきた観客は直感しただろう。これは極めて重要な演出である。つまりこの時点で「Perfumeのライブ」は完全に幕を閉じたことを意味しているのだ。

アンコールは無い。

夢の中で見た夢、それを叶えるべく夢から覚め、45000人のParty Makerたちと共に最高の時間を共有し、そして結末へと辿り着いた。そう、物語はこれでHAPPY ENDを迎えたのだ。

しかしそのわずか数分後、天女のような衣装を纏った“Perfumeとそっくりな”女性達が突如としてステージに現れる。
なぜ“Perfumeとそっくりな”などという言い方をあえてするのか?
繰り返すがこの時点で「Perfumeのライブ」は終わっているからだ。
お決まりのあのフレーズを口にしたのだから。
したがって今ステージ上にいる3人は、文脈上「Perfumeではない」超越的な何かなのだ。

 

これは道夏さんのLEVEL3 ドーム公演についての記事ですが、単なる演出上の意味だけでなくて、実際にPerfumeはそこで別の世界に旅立とうとしていたのではないか、そういう意味合いも含みで論じられたのではないかと。記事が書かれた1年後に読み返すとそのように思えます。*4

 

やはり、いまの三人を客観的に捉えると、ここで今さら「僕とキミ」は難しいですよ。

適齢期の美人でしょ?一歩間違うと自分の世界だけに埋没する、酒と女と涙のド演歌になってしまう。ギャル演歌という分類があるくらいなんですから。*5

だから、「僕とキミ」を歌うには「超越的な何か」に変身するしかなかったと思うんです。

 

必然としてのClingCling

Cling Clingが苦労したのも、ここからわかります。必殺技が使えるなら楽だったんですが、あえて封印して戦わねばならなかった。なにか具体的な恋愛関係とか、そういう歌詞は世の中にごまんと溢れているけど、それではPerfumeにならないし。

「いじわるなハロー」が一番良いという意見もあって妥当ではあるんですが、そういう歌詞世界ばかりなら別にPerfumeでなくても良いわけです。

で、出してきたのが名作凡作以前に、誰も評価が出来ないという抽象世界のClingCling。あとの二曲も想定範囲内ですから、怒る人は怒る。でも、自分でありつつ自分でないものに変化するにはどうするかなんて、人生で一番難しい神のみぞ知る事柄です。

 

そう考えると岡田斗司夫氏の言葉の意味も非常に重いわけです。

中二の世界と大人の世界は何処でつながるのか。その地図を一生掛けて見つけろというのが責任の取り方なんでしょうから。

これは単に個人の問題にとどまらずに、社会秩序の在り方全てに掛かってきます。「僕とキミ」の幕末の志士が最後にどうなったか、大きな話をすればそういうことにも行き着く問題です。

Perfumeに話を戻すと、「僕とキミ」を手放さざるを得ない以上、別の屋台骨を一から作り直さないといけない。しかも今までとキチンと整合性が取れた上で。

中田ヤスタカの力をもってしても、これは相当に難しい作業で、また彼自身も同じように成長していかねば壁は越えられない。

スターであれ、我々一般人であれ、人生も世の中も一筋縄でいかない難しいもんです。今更ながら、つくづく思います。