ohi-sama’s blog

晴れときどきPerfume

パラレルワールドと個人主義

なぜ「僕とキミ」は死語になったのか - ohi-sama’s blog

andoreiさんコメントより
基本的に、彼の詞の男の子と女の子って、パラレルワールドに住んでいて、互いに触れ合うことはできないのだけれども、時たま訪れる奇跡の瞬間にだけ七夕のように意思疎通することができる、そんなイメージを延々と追及しているような気がします。
 
 

なぜパラレルでヴァーチャルになるのか

文学部出身(英米文学専攻とかですかね?)のあんどれい氏はこの問題を『パラレルワールド』というとても美しい言葉で論じられたのですが。
法学部で無残にも一年留年して憲法や政治思想をやってた自分なら、『個人主義』の問題と捉えます。
 
結局言わんとすることは同じなのですが、「僕キミ」の世界は自由平等友愛の旗の下、人格不可侵が理想とされます。
そういう価値観で作られた近代社会では、結果として、人々は同じ地球に住みながら、各々の人格ごとのパラレルワールドを生きるということになります。
 
相互に対等で、内面は絶対に自由なんですから、他人様が何考えてようが知ったこっちゃない。
それが「個人の尊厳を大切にしましょう」と人権擁護週間などでスローガンとして言われる中身なのでした。
だから公教育が不可欠で、それをなくすと社会が崩壊するという、子供に妙に比重を置いた仕組みでもあります。
 
 
人間というのは大変我が儘な生き物でして、革命まで起こして散々人を殺して、人格不可侵は素晴らしいと言いながら、でもやっぱり他人には自分の価値を認めてもらいたい、自分独りでは生きられないという側面があります。
他人からの承認欲求が満たされない社会的経済的状態が失業、恐慌であり、価値の根源を他者以外の絶対的な存在に求めて政治的行動をすると、全体主義が待ち受けているという。
だから個人主義ってすごく脆いんですよ。
僕キミ世界がヴァーチャルだというのも、根源はそこにあります。
 
 

「僕とキミ」の光と影

近代社会=僕キミ世界観というのはそういう孤独なものですから、人と人との結節点はどこにあるのか?社会は何によって成り立つのか?ということが凄く重要になります。

もっとも、そうした世界観を抜きにしても、人間は個性がある以上、やはり人はパラレルワールドを生きるのではないか?という疑問はあります。

しかし、個人主義以前の社会では社会体制が人を孤独に追いやるなんて考えもつかないことですから、その意味でこれは近代社会=僕キミ世界観に特徴的な問題だといえます。

 

そして、これに関連するのが、前回論じたオフコースの「YES YES YES」。
あれは改めて考えたら駆け落ちの歌なんですね。
 
「君の嫌いな東京も秋は素敵な街」とありますから、彼女を連れて新しい暮らしをしたいと思ってる。
僕キミ世界観でいえば、若者は都会に出て新しい知識を得ることが目標とされますから、やはり「僕」はそれを目論んでると見るのが自然だと思います。
 
そして、「君が嫌いな東京」というのは、彼女が都会は嫌いだと言ってるということに重点があるのではなくて、それまでの暮らしを捨てることに、彼女が戸惑っていることを表しているのではないかと自分は考えます。
 
田舎にいれば不自由だけど、自分を認めてくれる人の中で生きていける。平凡だけど、それが一番幸せだという考えは今だに根強いものがあります。
マイルドヤンキーという言葉がありますが、彼らが都会暮らしに憧れないのもそういう理由だと思います。
 
ところが、そこから離れて人付き合いのない知らない土地に行ったら、自分の価値は限りなくゼロになる。
「代々続いた◯◯家の跡取り娘の◯◯さん」から、労働価値で天秤に掛けられるタダの時給いくらの女の子ですよ。
人にはそれぞれ固有の価値があると説くのが個人主義のように思うのですが、実際はその逆。
 
だから「振り返らないで いま君は素敵だよ」と続くんです。
彼女の価値の全てを自分が受け容れる。自分の愛こそ彼女の価値だと。
 
 
確かに、小田和正の詩は素晴らしいのです。しかしこれを手放しで喜んでいいものか。
青春時代の愛に異論を唱える積りは毛頭ありませんが、やはりそこには儚い綱渡りの人間関係という問題をはらんでいると思います。
 
そして、これが僕キミ世界の典型的な考え方なのです。
横のつながり、連帯、共感を縦のしきたりや定めよりも重視して、それで世の中の矛盾をなんとかしようとする。
でも、どこまで現実味があるのか、若気の至りで終わる危険が常に付きまといます。
 
 

そしてPerfumeなんですが

 
Perfumeに話を移すと、ClingClingで僕キミを使わなかったわけですが、では今後どういう方向で進むべきか?
僕キミ世界を深化させるのもアリですが、自分的にはもう少し広がりがある考え方の方が良いようにも思います。
 
なぜなら、小田和正は力の限り声を振り絞り「あなたを連れて行くよ」と熱唱することで、僕キミ世界からの卒業をやろうとしたのですね。その気合いで押し切ることが感動に繋がったのです。
 
ところが、Perfumeに同じことを求めても、彼女らのスタイルからすれば疑問符がつきますでしょ?
中田ヤスタカにしても、あくまで理知的に解決したいでしょうし。
 
あと、僕キミはどうしてもステレオタイプになりやすい問題もあります。
思春期で抱える想いというのは、自分だけの問題のようで、実はありふれてるものですし、わたしがこうやって書いてる近代批判にしても、夏目漱石あたりから延々と続いてきたものに過ぎません。
Perfumeは、そこにMIKIKO先生と関さんが入ってくれたのでマンネリは避けられたのですね。100年前から続く問題を、一気にSFの近未来にワープさせましたから。
ただ、それだけでは限界もあるでしょう。
 
なので、理屈っぽくなるけど、歌詞世界や考え方でどうにかする方向しかないと思うんですよ。
 
更新がまた少し空くかも知れませんが、次回この問題を掘り下げて論じていこうと思ってます。まあ、素人のやることなので、多少雑なのはご勘弁を。