ohi-sama’s blog

晴れときどきPerfume

キミは紅白の Cling Cling を見たか


Perfume/Cling Cling 第65回NHK紅白歌合戦 2014/12 ...

はじめに

紅白のPerfumeは掛け値なしに凄かった。そして、Cling Cling は初めてその全容が理解できた。

 

あれは歌詞がどうとか、衣装がこうとか、舞台設定とか、そういう「分析」ができる代物じゃない。

だいたい、個々に細分化して分析されたパーツは、表現そのものではない。それは人間を「単なる分子化合物ですね」と結論づけて証明おわりとするようなもので、何も答えになっていない。

 

今回は紅白という横並びの異種格闘技戦であったのが、幸運であった。

 

まず、出だしの音から差がついてる。中田ヤスタカの緊張感あるタイトな、しかし抑制しつつ強さを感じる「届く音」。こういう演奏ができたグループは皆無で、自称アーティストは公開処刑状態に遭う。

 

そして肝心のダンスだが、なぜいままで自分たちは感動出来なかったのか?

これは理屈ではなくて、Perfumeの全身から出でくる気合いと集中、そして熟成度の問題だったのだと思う。

 

おそらく、発売当初、本当にこれが受け容れられるのか、3人は不安だったのだろう。その後、ぐるんぐるんツアーでも、WT3のことで頭がいっぱいで、心の余裕が全くないまま演技をせざるを得なかったのだと思う。

その迷いが残念ながら芸に表れて、混乱に繋がってしまったのだと考える。

 

それが紅白では違っていた。

正直にいえば、ClingClingは不人気曲であって、そのことはPerfume自身が痛いほど分かっていたに違いない。自分も今年の紅白はこの曲でやり切るのは難しいと書いた。

しかし、彼女らは逃げなかった。最後の最後までClingClingの完成に拘ったのである。そして、この態度が表現として結実した。

 

解釈ってなんだろう?

 

Cling Cling の発売当初聞かれたのが「さっぱり訳が分からない」。実際、この曲ほど、歌詞カードを読んでも内容が分からない曲もいままでなかった。

さらに、ファンはいままでの Cling Cling が、先に挙げたような問題もあり、ダンスの面でも、熟成、つまりPerfumeの中でも理解の深さが届いておらず、未完成の状態のまま受け入れざるを得なかった。

結果として、それは拒否反応に変わるか、Perfumeのやることに間違いはないという信仰に変わるか、とにかく自分自身が全く納得できないまま態度だけを決めるという状況を作り出した。

 

でも、それっておかしくないか?

だいたい、歌詞なんてこれでも通用する。

 

修羅場穴場女子浮遊
憧れのPARADISE☆PARADISE
愛乃場裸場男子燃ゆ身を寄せりゃ
カモなる無限大

 

 

これくらいの感じで
たぶんちょうどいいよね
わからないことだらけ
でも安心できるの

 

大御所のサザンオールスターズだって、こんなものなのである。というか、それが芸風であり、また歌詞としての面白さだ。

自分たちはファンだから、正しい正解をすぐに求めたがる。しかし、いま、全てを理解する必要なんてなかったのだ。それは傲慢というものだ。

本当に必要なのは、正解ではなく永遠に続く問い掛けなのである。

 

「我と汝」

私たちは作品を「選んで」それについて「分析」する。こういう態度は一面では正しいが、永久に感動には結びつかない。

芸術の本質は、作品が「私を選ぶ」ことにある。作品から発せられる力で、私は作品に吸い寄せられる。私があれこれ考える以前に、私の魂は作品の世界に取り込まれている。

Perfumeだって同じことだ。私たちはいつの間にか魔法にかかったように作品に吸い寄せられファンになった。自分の意識ではなく、Perfumeからの働きかけの力なのだ。

なぜ、それほどまでにPerfumeは、また作品は自分を魅了し続けるのか。そこには客観的な分析では決してカバー出来ない、主観としての「対話」がある。

 

マルティン・ブーバーの「我と汝」に習えば、「世界」は人間の態度によって二つに分裂する。

 

①一つは「我と汝」。

「汝」は「我」の全存在を以てのみ語ることができ、我と汝との間に境はない。私は汝との「関係」の中に生きている。

  

②もう一つは「我とそれ」。「それ」は決して全存在をもって語ることが出来ない。「それ」は、私から切り離された世界の一部の分析対象にすぎない。

  

③「我」と「それ」との間には「私はそれを知っている」という過去形の世界しかない。

 

④しかし「我と汝」との間にあるのは、永遠の現在である。絶えることのない疑問についての対話の世界だからである。

 

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)

 

 

 

そして「僕とキミ」

世界は謎として存在し、その中で人間は生まれ、理不尽ななかを生き抜き、最後は死を迎える。

我々は一日一日を死に向かって歩み、万物には必ず終末が来る。

そして時間の流れを止めることは出来ないと誰もが言う。時間は誰にでも平等だとも云う。

 

だが、この一般論は本当だろうか?

 

中田ヤスタカが「僕とキミ」という歌詞世界で訴えたかったものは、歌詞の内容だとか情緒だとか世界観だとか、そういう自分自身から切り離された分析対象としての「我とそれ」では決してなかったのだろうと思う。

 

我々は自分の意思とは全く関係なくこの世に生を受け、それが一回限りのものであり、替えの人生はあり得ないという、本質的に理不尽な一回性・不代替性のなかを生きている。

自分の生という観点からすれば、銀河の動きがどうだとか、原子の構造がこうだとか、そういう客観の世界はパラレルワールドとして存在するにせよ、決して本質的な問題ではない。

我々が本当に知りたいのは、生きること、死ぬこと、そして幸福の意味であり、それに世界がどう関係するのかということなのだ。

 

手前味噌な話を繰り返して申し訳ないが、幕末に「僕とキミ」と呼びあった若者が夢見たものは、千年前に力を失った天皇の復権であり、同時に300年も遅れてしまった近代に追いつくことであった。

 なぜ「僕とキミ」は死語になったのか - ohi-sama’s blog

 彼らはパラレルワールドを生きたのである。

そして、パラレルワールドという分析も一面では正しいのだが、更にあえていうなら、彼らは「僕とキミ」=「我と汝」という言葉を見出すことで、「永遠の現在」を生きたのである。

 

それは、世界と自分とを決して理解し得ない、しかし、永久に続く対話と問い掛けの関係として捉えることであったと思う。

「キミ」はあなたとしてのキミであり、天皇を指すキミであり、来たるべき世界としてのキミだ。

だから死ぬまで手が届かないとしても、全存在を懸けて希求をすべき永遠の存在なのである。そして、そこに生きること、死ぬこと、幸福の意味を見いだしたのではないか。

望遠鏡で見た遠い星で生まれてたら
同じように きっと今頃 キミを探す
見上げて何かを言う いつかはこの手届くかな
天の川越えるまで もうすぐ

誰だっていつかは死んでしまうでしょう

だったらその前にわたしの

一番硬くてとがった部分を

ぶつけて see new world 

 

 

そしてPerfume

 

Cling Cling に話を戻せば、なぜ紅白での演技がここまで素晴らしい物だったのか。

それは彼女らの全存在を懸けた姿勢にあったのだろう。雑念を全て忘れて作品にのみ意識を集中する。作品がもつ力によって、初めて自分の表現が始まる。

自分と作品との間にもはや壁は存在しない。ただ一曲だけを全力でやりきる場だから、それが可能になった。

だから、表情が三人ともとても良かった。それだけで自分は彼女らに花マルを付けたし、演技を観てさらに満点以上の採点をすることが出来たのである。

 

ただ、いままでにない難曲である。

その後のCDTVでは紅白のようなキレはなかった。気力を使い果たしたのだ。

Cling Cling は、そのくらい細部にまで魂を宿らすことで完成する曲だった。

 

 

だから、ここでの教訓は、ファンは一旦「分析」を遠くからみて、そこから離れることも必要だということ。そして、芸術は時間とともに熟成されるもので、早急に結論を急いではならないこと。

我々ファンが悩みながら進んだように、Perfumeもまた時間をかけてここまで進んだのだ。

それは自分が去年得た貴重な体験として誇りにしていいように思った。