ohi-sama’s blog

晴れときどきPerfume

余は如何にしてClingCling信徒となりし乎

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1.Perfumeの評価軸とは

先日の記事に常連のとらやぎさんから頂いたコメントで次のようなものがありました。
要約すると、
 
1.人間は表現活動に対して、
(1)「何を求めるか」という欲求の対象か否かという点で「評価軸」を持ち、
(2)そのうえで、「欲求がどれだけ満たされるか」という有効性において「評価」を行う。
2.「評価ができない状態」、すなわち言語化できない表現に対しては「嫌い」という評価をする。
というものでした。(趣旨と違うかも知れませんが、私はこのように解釈したということで御勘弁を)
 
視点としては正鵠を射ていると思うのですね。ClingClingについてのファンの一連の現象はまさにこれですから。
曲を聴いて、ダンスを見て、わからないならば、ただ単純に「わからない」と答えるべきだったのです。それが正直だし、別にファンだからといって、すべての曲が好きである必要なんかないですし。
あるいは、わからなければ「無関心」というのも答えですよね。
ところが、何がなんでも体験を言語化しないといけないという変な観念がある。そして、できないものだから、「嫌い」になってしまう。
その現象を正確に捉えているという点では、この説は正しいのです。
 
たとえば、前にファンカメラの件で圧力団体を始めた方のことを書きましたがあの方ClingClingで同じようなことやってるんですよ。売り上げが悪いのは違法アップロードのせいだと理由をつけて。
本来なら「新曲が素晴らしいから聴いてみてよ!」というのが先のはずなのですが、たぶん曲の良さを理解できなかったんでしょう。「嫌い」という感情が、変にねじ曲がって他のファンへの攻撃に向かっていくという。
また、私らのお馴染みの、あのお方もどうしているのか心配ですし。

2.愛は評価できるか

ただ、私がここで言いたいのは、本当に評価だけで人間は行動が決まるのかと。「評価ができないもの」だからこそ、人間は愛情を注げるのではないかと。
 
たとえば、家族なんてその典型で、ロクでもないガキに時間と労力と大金ぶち込むなんて愚の骨頂なわけですよ。嫁さんだって飽きたら取り換えればいい。
評価という観点からすれば、人間は不合理極まりない存在であって、そういう不合理な日常を漫然と生きてるなんてそれこそ無意味なわけです。
 
でも、これを否定できますか?
 
言い方を変えると、「好き-嫌い」という関係は評価軸でいいと思うんです。でも愛情って評価軸で判断できますかね?私の考えでは、芸術とか美とかも、同じ括りで考えるべきものなんだと思うのですよ。
 
 

3.大人も赤ちゃんからはじまった

もう一つ、疑問点を挙げると、私たち大人も、はじめは「赤ちゃん」だったんですよ。
 
でも、赤ちゃんって言葉を話せますか?言葉を話せない人がどうやって「言語化できない状態」に対して「評価」をするんですか?
だけど、赤ちゃんにも「好き-嫌い」はあって、そこからの体験の連続があって、今の自分自身があるわけでしょ?
 
だから、この説には「有効射程」があって、ある現象を説明するにはすごく的確なんだけど、場合によっては別の考え方も必要だろうなと考えておりました。
 
そこで出してきたのが「我と汝」なんですが、これは時間があったら触りだけでも読んでおくと、芸術批評には役立つとおもいます。評価を「我とそれ」の関係として、そこでは芸術は存在しないとバッサリ切ってますから。賛否はともかく、刺激はすごく受けると思います。

 

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)

 
 

4.余は如何にしてClingCling信徒になりし乎


NHK紅白歌合戦 Perfume 『Cling Cling』 - YouTube

すみません。ブロック掛かってるようです。自力で探してください(^^;;

 

話をPerfumeに戻すと、私は前の記事で紅白のClingClingを絶賛したんですね。
これこそPerfumeの真の姿だと。我々が恋い焦がれ、待ち望んでいたものが帰ってきたと。
 
何に感動したのか、読者の方はサッパリ理解できなかったかも知れませんが、それはClingClingが徹底して「言語以前の世界」を扱っているからなんです。
 
「そもそも論」を展開すると、「世界」というものは言語で捉えられるかということなんですよ。
歴史的な区分でいえば、私たちは近代社会というものを生きていて、そこで発達した「科学」というものは、
 
①万物は「分析」によって性質を明らかにできる、
②全ての現象は「法則」によって説明できる、
③人間は「理性」の働きによって世界を解明できる、
 
というドグマをもっています。
だから、世界というものは「分割」して、「分析」して、「法則」の当てはめのために「評価軸」を書き込んで、そうして出来たグラフに点を打てば解明したことになるだろうと。
それが科学というドグマがやってきたことで、その意味ではとらやぎ説は真っ当な考え方なのです。
 
ですが、この考えのダメダメなところは、座標の中心は常に「人間」、しかも「理性的人間」というイデオロギーを前提にしていることなんですね。
そして、「理性」というのは全てを論理、つまり言葉の積み重ねで解明できるという前提の考え方です。
でも、本当に人間は合理性だけで生きているのかと。
 
さっき述べた「赤ちゃん」はそういう存在なんですよ。合理性なんか、ひとかけらもない。でも、愛情ってあるわけじゃないですか。
おてて つないでる
キミと あたしの るんるんるん
ちっちゃい このコでも
愛の 深度 変わらない
 
私たちが生きている「世界」というのは、むしろ「分析が及ばない」ということこそが本質であって、だからこそ驚きや畏敬や愛がある。
おっきいハコの中 背の高い生物がたくさん
かきわける 全身を使って キミをつかむ
 
決して理解はできないが、だが自分たちは関係のなかで常に問いかけをして、また言葉にならない対話がそこにはある。
見上げて何かを言う いつかは横に並ぶでしょ
なまいきなハーモニーまで もうすぐ
 
たとえば、ある人々にとっては自然はいまでも対話の相手なわけですよ。
農家とか漁師とか自然相手の仕事はもちろんそうですし、庭師や生け花の先生も草花からの「語りかけ」からインスピレーション受けて仕事をしてるんです。
 
前の記事で、Perfumeの歌詞の中の「キミ」というのは、確かにあなたの意味ではあるけど、元を正せば天皇の意味で、そこから来たるべき世界を暗に指しているんだよということを書きました。
だから、キミというのは別に人間でなくても良い訳です。全存在を懸けて希求すべきものであれば。ある意味、人間を超えてるんですよ。
 
では、「僕」がまだ言葉がおぼつかない子どもであれば、何が「キミ」になるのか。
目にするもの、触れるもの、生きとし生けるものすべてが「キミ」なんでしょう。
何も知らないからこそ、対話が生まれる。全てに命があると思っている。
そういう世界が、本当はすべての人にあったし、ただ大人になってそれを忘れているだけなんですよ。
 
子供におもちゃをあたえれば、ずっと話し掛けながら遊んでいるじゃないですか?これ、独り言だと思います?立派な対話ですよ。
その子供にとっては、おもちゃは単なる物ではないし、それへの語りかけで「世界を作っている」。仮に言葉がまだ話せなくても、そういう意味での「語り掛け」は赤ちゃんでも出来ます。
そこでは、座標軸に置かれた点の集合が世界だという考え方とは、全く別な世界が広がります。
 
ClingClingが素晴らしいのは、人間関係が一切なし。Perfumeのクネクネした動きって、人間の仕草ではなくて植物の成長や、川の流れ、星の瞬き、雪の降る様。そういうのがモチーフなんでしょう。で、時々ぴょんぴょん跳ねるのは子供の遊び。
 
これはね、いまでも田舎で野山で遊んでいる子供ならわかったと思うんです。
ところが、大人は人間関係第一主義みたいなイデオロギーが抜けなくて、さらに日本の歌の99%は恋愛絡みという歪んだ前提があるから、なおさら抜けられない。
人間関係の評価軸をどこまでも使おうとするんです。それが、もう役に立たないことに気付けない。
 
Perfumeの側も難しかったと思います。人間以外の存在なんてやったことないから。
だから、それを表現するにはPerfumeの力をもってしてもリリースから紅白まで半年が掛ってしまった。そのくらい「言語の世界=人間関係」の呪縛から抜けるのは難しいということなんです。
 
だから、先入観持たずに、もう一度紅白を見てください。
ほんの少しのことがわかれば、あとはスッとその世界に入れます。凄く楽しいし、見ていてラク。癒しってこういうことだったのかと気が付きます。
すると、私の言ってることもだんだんわかってくると思います。

 

ではまた。あの方から連絡あったらヨロシク。